現在の日聴紙の骨格を作った、伝説の人物

古海巨(ふるみ・ひろし)B

日本聴力障害新聞・元編集長
元全日本ろうあ連盟常任理事(編集部長)

聴障新聞・サイレントの編集を手がけた
近代デフ・ジャーナリストの先駆者

 現在の日本聴力障害新聞が、最初に創刊されたのは1931(昭和6)年6月に大阪の大中次郎が発行した「聾唖月報」である。5年後に経営難で廃刊。

 1947(昭和22)年、全東京聾唖協会の黄田貫之(大阪市立ろう学校出身)と古海巨(大阪府立生野ろう学校出身)らによって「聾唖新聞」が創刊されたが、経営難に陥った。

 1949(昭和24)年6月に、大中次郎の「日本聾唖新聞」と神戸ローアクラブ・広畑肇の「近畿ローアニュース」と古海巨の「聾唖新聞」の3紙が合併して、「日本聾唖ニュース」と改められ、経営が軌道に乗り出し、読者の数も増えてきた。1952(昭和27)年1月に「日本聴力障害新聞」に改題した。

 物価高騰による経営難を打開するため、1957(昭和32)年4月号に古海巨が社説に「今後の本紙経営の在り方について」を寄稿した。
 古海の主張は、1)本紙の経営権を無償で全日ろう連に委譲する、2)独立採算制で、全日ろう連の機関紙として有料頒布する、3)全日ろう連の機構、組織を利用して拡張につとめる・・というもので、現在の日聴紙の骨格を作った、驚くべき「先見の明」があったといえる。

 同年6月に、新聞発行の権利を全日本ろうあ連盟に譲渡して、大中の個人経営に終止符がうたれた。しかし、藤本連盟長が権利譲渡の条件を無視して、東京の古海に譲渡したため、大中と藤本連盟長の間で大もめになった。

 古海は市村栄(東京都立品川ろう学校教諭)の援助を得て、編集長として日聴紙発行の継続に努めた。

 1959(昭和34)年7月に、東京都新宿区戸山町の国立ろうあ者更正指導所に編集室を移転した。 


全日本ろうあ連盟出版部で販売中
(左に古海巨の顔が見える)



大中次郎
(おおなか・じろう)



国立ろうあ者更正指導所における編集部会議=左端が編集長の古海巨
(紙の機関車より)




写真=横幕家提供
 1961(昭和36)年9月に、社会福祉法人「日本ベル福祉協会」が厚生省より法人認可され、国会議員の山下春江が理事長に就任した。全日ろう連の藤本連盟長が理事に加わった。

 1964(昭和39)年5月に、東京で開催された全日本ろうあ連盟評議員会において、藤本連盟長が勇退を表明して、新連盟長に大家善一郎が就任した。

 1965(昭和40)年3月に、東京都目黒区碑文谷に「日本ベル福祉会館」が完成した。

 ベル会館の建物は、地下1階、地上6階の鉄筋コンクリート造りで、同年4月に日本ベル福祉協会事務所と全日本ろうあ連盟の事務所および日聴紙の編集部が設けられた。

 2・3階は、ろうあ者の授産所と宿泊に、4階以上が分譲マンションとなっていた。

 ベル会館の疑惑をめぐって国会で問題化され、ゴタゴタしていたのに加えて、同年7月には古海編集長が、国際ろうあ者競技大会への役員派遣をめぐる抗議行動を起こした責任を問われて、連盟の常任理事を解任され、必然的に日聴紙編集長からも降ろされてしまった。日聴紙は7月号を最後にいきなり休刊となった。


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リポート/美多哲夫(金沢市・日本聾史学会会員)


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