日本ろうあ体育協会の礎を作った、影の功労者

古海巨(ふるみ・ひろし)C

日本聴力障害新聞・元編集長
元全日本ろうあ連盟常任理事(編集部長)

聴障新聞・サイレントの編集を手がけた
近代デフ・ジャーナリストの先駆者



古海巨が最後に編集した、日本聴力障害新聞 1965(昭和40)年7月号

 日聴紙物語「紙の機関紙」によれば、1965(昭和40)年7月に古海編集長が、国際ろうあ者競技大会への役員派遣をめぐる抗議行動を起こした責任を問われて、連盟の常任理事を解任され、必然的に日聴紙編集長からも降ろされてしまった。日聴紙は7月号を最後にいきなり休刊となった--とされている。

 その真相はいかなるものか、日本聴力障害新聞縮刷版・第一巻(前編)を中心に検証を試みた。この第一巻は完売であるが、全日ろう連加盟の都道府県ろうあ協会の事務所で閲覧が出来る。

 同年6月27日から7月3日までの日程で、アメリカのワシントンで開催された、第10回国際ろうあ者競技大会(IGD・現在のデフリンピック)に日本が初めて参加した。

 この国際ろうあ者競技大会に参加するためには、大会の開催団体である国際ろうあ者スポーツ委員会(CISS)に加入する必要がある。全日本ろうあ連盟に体育部というものがあったが、全日ろう連は福祉団体であるので、別に独立したスポーツ団体をつくる必要があった。

 古海巨は日聴紙の編集長として、日本のろうあ者スポーツの意義と振興に関する記事を多く執筆した。国際ろう者競技参加対策委員会に大崎英夫常任理事らとともに古海理事も参加している。

 1963(昭和38)年3月17日に、東京都新宿戸山町の国立ろうあ者更正指導所において、日本ろうあ体育協会が発足した。会長 藤本敏文、副会長 奥田実・大崎英夫、理事長 園田良介

  全日本ろうあ連盟は世界ろう者連盟に、日本ろうあ体育協会は国際ろうあ者スポーツ委員会に、それぞれ加盟を果たしたわけである。



後列右から2人目が古海巨(写真=横幕家提供)


 古海巨が全日ろう連の表舞台に初めて登場したのは、1956(昭和31)年5月で、当時の藤本敏文連盟長より人事の刷新に伴い古海を理事に指名した。古海33歳で、編集部長に就任した。

 藤本連盟長は、古海の類まれな才能を見出して目をかけていたといわれる。



藤本敏文名誉連盟長

 古海は1964(昭和39)年5月より、藤本が名誉連盟長に勇退したあと、大家善一郎新連盟長によって、常任理事(編集部長)に昇格した。



大家善一郎連盟長



第10回国際ろうあ者競技大会(IGD・現在のデフリンピック)に日本が初めて参加
1965(昭和40)年6月27日、アメリカのワシントンにて



同年6月20日の午前10時に羽田空港からアメリカへ出発する日本選手団






↑昭和40年6月号





↑昭和40年7月号



サイレント縮刷版
(表紙カバー)
横幕家所蔵本

「サイレント」は、日聴紙を半分にしたようなタブロイド版の聴障新聞で、編集がしやすいため、現在の各県ろうあ協会新聞のモデルとなった。
創立20年史 財団法人 日本身体障害者スポーツ協会

3.第10回国際ろうあ者競技大会
アメリカ/ワシントン ギャロデット大学
昭和40年6月27日〜7月3日
参加29カ国 選手約1,000人
日本選手団 選手7 役員4 計11人

団長     園田良介 (日本ろうあ体育協会理事長)
副団長   大崎英夫 (日本ろうあ体育協会体育部長)
マネジャー 今西孝雄 (国立聴力言語障害センター指導課長)
通訳     松下 淑 (国立聴力言語障害センター指導課職員)
選手     秋山隆晴(山梨県) 200m走巾跳,走高跳
選手     高山道雄(栃木県) 1万m 25q (3位)
選手     斎藤圭三(神奈川県) 砲丸投
選手     林 弘(神戸市) 100m自由型
選手     小池興一(東京都) 体操
選手     中井リオ子(大分県) 卓球
選手     鈴木令子(群馬県) 100m,200m,走巾跳

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 古海編集長が、国際ろうあ者競技大会への役員派遣をめぐる抗議行動を起こしたといわれているが、その役員の顔ぶれを見ると、特に問題があるように思えないのだが、どうであろうか。

 古海編集長はおそらく報道記者である自分が役員派遣に入れてもらえないという不満があったのではないかと、最後の7月号の記事でその心情をうかがい知ることが出来る。

 例えば、ほかの国の選手団をみると、役員の中に高級16ミリカメラをかついで報道している人の様子が記事に書かれている。

 古海編集長はやむを得ず、日本聴力障害新聞社の経費で、派遣選手団について渡米して、競技大会を取材することになった。(左の写真)

 新聞社の経費といっても、全国の読者から送金してもらう購読料と広告費がほとんどで、当時の円相場は「1ドル360円の固定レート」の時代で、高額の渡航経費をまかなえるはずがなかった。

 そこで、古海編集長は競技大会の様子を8ミリフィルムのカメラで撮影して、全国各地で巡回上映会を開いて、収入を上げることを考えた(左の写真)。

 ところが、古海編集長が「抗議行動」を起こしたために、連盟の常任理事を解任された。「抗議行動」とはいったい何なのか、常任理事を解任する場合、まず大家連盟長の召集で常任理事会が開かれて、問題の経過報告と古海本人の釈明、そして会議の議論を経て、最終的に大家連盟長が解任処分を決める手順になるはずである。

 当時の連盟常任理事会の顔ぶれは、大家連盟長をはじめ、副連盟長の土屋準一・楫野昭夫、常任理事の大崎英夫・高木茂生・西田一・和田秀雄・古海巨の8名である。そこで何が問題になったのか、残念ながら8名全員が故人となっているので、今となっては真相は不明である。

 しかし、古海編集長が7月号を送り出したときに「8月号を出す」(左の写真)といっているので、その「8月号の記事が問題になった」可能性が高い。実は筆者(美多)は、当時石川県聴覚言語障害者福祉協会の事務局で、「日聴紙8月号」が送られてきた記憶がある。

 大家連盟長は何らかの理由で「日聴紙8月号」を不適当として、無効の判断を下した可能性が高い。「日聴紙7月号」を読めば、古海編集長の不満が感じられる。不満が高まればどうなるのか、やがて「連盟への批判」となって、「抗議行動」を起こしたのではあるまいか。

 こういう場合、古海は冷静にだれかに相談すべきであったが、理解者である藤本敏文はすでに勇退していて、連盟に影響力がない。古海の孤立無援が想像できる。

 いくつかの不運が重なって、こうして古海は連盟の表舞台から消えざるを得なくなったわけだが、古海が日本聴力障害新聞の骨格と日本ろうあ体育協会の礎を作った「影の功労者」であることは、紛れもない事実である。(終)
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古海巨と私

 古海巨と私は会ったことがない。いや、正確にいえば、1967(昭和42)年6月に愛媛県松山市で開催された「第16回全国ろうあ者大会」の会場で、古海を見たことがある。写真で見る、太い縁メガネをかけた有能そうな男であった。

 私といっしょに参加した先輩が古海に手を上げて、何かを話していたのを身近に見た。私はろうあ協会の事務局にいて、日聴紙の編集長として彼の名前を知っていた。

 私は大会の前の評議員会に出席したが、東京から「古海問題」について質問が出ていたことを覚えている。連盟は「古海氏が評議員になって連盟に戻ることは認められない」という話だったような記憶がある。

 私は新聞「いしかわ」を編集していて、東京の石川県人に新聞を送ったのだが、古海が目にとまって「サイレント」紙に紹介してくれたり、「会ってみたい」という話を先輩から聞かされていた。だが、対面がかなわないまま古海は亡くなった。

 それ以来、私の心の片隅に古海の記憶を残したまま、40年以上の歳月を経て、facebookによって、彼の隠された功績を記録に残して、世に送り出したいと思ったわけである。
(2013.8.9)



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リポート/美多哲夫(金沢市・日本聾史学会会員)


外部リンク/サイレントJAPANサイレントJAPAN - YouTube

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