聾歴史の闇に埋もれた、知られざる人物

古海巨(ふるみ・ひろし)@

日本聴力障害新聞・元編集長
元全日本ろうあ連盟常任理事(編集部長)

聴障新聞・サイレントの編集を手がけた
近代デフ・ジャーナリストの先駆者



古海巨氏 逝去

「サイレント」紙の創始者であり、主宰であった古海巨は、脳出血による心不心のため3月12日午前10時8分、東京医科大学病院で死去した。享年57才。通夜に引きもきらぬ参加者のおびただしさで、往時の氏の社交の広さをしのばせるものがあったという。

 古海氏ほど毀誉褒貶(きよほうへん)の矢面に立たされた方は、他に類を見ないが、氏に対する評価はまちまちであるにせよ、新聞の虫として生涯を貫き、一時代を画した功績は何人といえども認めない訳にもゆくまい。

 故古海氏の大黒柱を失った「サイレント」紙と「サイレント文化連盟」の行方が注目されていたが、8月15日〜17日、北海道帯広市で開かれた第5回全国サイレント文化大会で、遂いに「サイレント」紙は無期休刊、「サイレントスポーツ連盟]は解散と最終的に決定された。

「聴障画報」1980 No5・No6合併号の記事より

サイレント新聞生みの親へ 追悼

 3月14日、古海ひろし氏3回忌に沢山の人々が出席しました。

 彼は、1979年の第一回目の世界柔道・空手選手権の準備のために働きすぎて、過労のために亡くなりました。彼は、事務所近くの東京メディカル大学病院に入院しました。主治医は彼の病気を胃がんや心臓病と診断し、手術のために十分な休養をとるようにすすめました。しかし、彼の命を救うための主治医の懸命な努力にもかかわらず、1980年3月12日、57歳で他界されました。

 ろう者の文化を向上させるという彼の仕事が死によって、完成されなかったことは残念であります。古海氏のお葬式には沢山の知り合いや友人たち、聞こえない人や映画監督、医者や国会議員などが参列されました。

 古海氏は京都で生まれ、大阪で成長されました。お父様は映画監督、お母様は女優でした。大阪ろう学校では彼は、学生新聞の編集長をしていました。

 第二次世界大戦中、彼は大阪を離れ、朝日新聞の仕事を得るために東京へと向かいました。映画評論家のつむらひでお氏の紹介でした。その後、彼は、共産主義の新聞のスタッフとして加わりましたが、このことは東京にいるほとんどのろう者に知られていきました。

 ろうあ協会会長のおだ・きのすけ氏は、ろう者のための新聞の発行をするようにと彼を説得するためにやってきました。新聞の発行は続きましたが、戦後の困難や利益の少なさによって、新聞の発行は10回目で終了せざるを得ませんでした。

 古海氏は全日本ろうあ連盟の藤本氏に新聞の再発行と経済的な援助を求めて、その賛同をえることができました。当然のことながら、彼の編集能力の優秀さから彼は編集長に任命されました。

 その頃、映画監督であった父の「古海たくじの回想」という本を出版しようとしていました。彼は東京生まれの美しい女性と結婚して、一女をもうけました。

 彼は、ある理由から日本共産党を脱退し、彼の意見やろう者への関わりに反する勢力の圧力に対して、出版の自由を守るために戦っていました。

 ワシントンDCで開かれた「第10回IGD大会」に日本チームが初めて参加したとき、彼はそのレポートを日本に伝えた最初の人でした。彼が海外のニュースを写真とともに送ることで、新聞の発行がさらに増えていきました。しかし、いろいろな困難な問題がおこり、彼の事務所は大きな負債をせおってつぶれてしまったのでした。

 数ヵ月後、彼は彼自身のジャーナリズムに対する意欲がなくなっていないことに気がつき、自分の家を売り、また新聞社を不死鳥のようにたちあげました。それだけでなく、旅行会社を設立して、ろう者のためのクラブも作りました。

 彼は新聞の発行、旅行会社の経営、ろう者のクラブの経営などを行なって、彼こそ不可能を可能にする男でありました。古海さんはろう者と難聴者の中で有名な人でした。

 彼は本当にやさしい男でありました。彼は自分の家をろう者のクラブのために開放し、海外から来たろう者も自宅に呼んで、必要なだけ滞在できるようにするなど、いつでも自分の家に招いて歓迎していました。時には歓迎パーティやさよならパーティなどを開いていました。

 古海さんはどんな人にも、区別なくお付き合いする人であり、また、人の名前をほとんど覚えていました。一般的に社会から冷たい扱いを受けている弱い人たちは、古海さんからとても力強い援助を受けていたのです。彼らは仕事をさがす手伝いをしてほしいとか、手紙を書いてほしいとか、問題を解決してほしいという相談にきました。

 みんなは沢山のプレゼントや新年のプレゼントを彼への尊敬と感謝を表すために届けました。言うまでもなく、毎年、彼は日本中だけでなく世界中から年賀状やクリスマスカードをもらっていました。

 彼は、偉大な作家にもなれたでしょうが、ジャーナリストになることを選びました。

 ある政治家は、古海さんがもし、聞こえる人であったなら、彼は日本の総理大臣になれた人であったかもしれないと言っていました。

(横幕家提供・原文のまま)

Aにつづく

リポート/美多哲夫(金沢市・日本聾史学会会員)


外部リンク/サイレントJAPANサイレントJAPAN - YouTube


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